書評:池波正太郎『散歩のとき何か食べたくなって』

「食通」とは呼ばれなくていい.「勉強してる」も京都では勘弁.変に通ぶったりする気はないけれど,「粋」「いなせ」と呼ばれる金銭の遣い方はしたいなーと常々思っています.

そんな私の粋の師匠.リアル師匠は愛知県に師事した方がいますが,心の師匠は作家・池波正太郎先生.池波先生の食事や酒,衣服や文具へのこだわり,目下の者への優しさなどはびっくりするほど恰好いい.格好ではなく恰好と表現したくなる人生の達人.ということで,池波先生が1977年に書かれた『散歩のとき何か食べたくなって』.下鴨納涼古本まつりのときに初版を手に入れたものです.

»散歩のとき何か食べたくなって (1977年)

銀座・浅草といった東京エリアから,横浜,長野,京都,大阪までにいたる食べ物の随筆.エッセイじゃなくて随筆.読んでいて「食べたい」と思わせるのはもちろん,ドキドキするし,職人への愛にほろりとする.もうね,池波先生の文章に比べたら,私の主催する京都いい店はまる店なんてチラシの裏ですよチラ裏.比べるのが間違ってますね.

しかし,読んでいてこんなに興奮した本は久しぶり.書き出しからしてすごい.

年齢(とし)をとるにしたがって,懐旧の情が濃くなるという.

このごろ....

週に何度か,これだけがたのしみで出かけて行く映画の試写を観終えてから,知らず知らず散歩の足が,生まれ育った浅草へ向くのをどうしようもない.

なんと読み手の興味と郷愁をそそる書き出しか!

そして池波先生は散歩し,酒をのみ,料理を楽しむ.たったそれだけの話.だが,それだけの話がなぜこんなに面白いのか.

天ぷらは揚げ物である.揚げ物ならば熱いうちに食べなくてはならぬのが自明の理というものだ.せっかくに神経をくばって油の火加減をととのえ,気をつめて揚げてくれた天ぷらを前に,ぐずぐずと酒を酌みかわしていたり,語り合ったりしていたのでは,天ぷらが泣き出して,ぐんにゃりしてしまうし,料理人は気落ちがしてしまう.これまた自明の理である.
夜ふけて,ホテルへ帰り,酔いざめのかわいた喉へ,待っていてくれた[好事福盧]が冷んやりと入って行くときのうまさは,こたえられない.
(やっぱり,銀座だなぁ...)

素晴らしいな.思ったことを素直に表現しているだけなのかもしれませんが,そんな日常の所作でさえ華がある.瀟洒である.日常的なことを書けばエッセイという訳ではないということを改めて知りました.

昭和52年という私よりひとつ歳下の本書ながら,新しい驚きを与えてくれました.超オススメです.


なお,池波先生は本書で,日本の都市(東京,大阪,名古屋,京都)の近代化により,古くからの街並が失われることを懸念されていました.特に京都については再三.池波先生や文豪が愛した古都が守られないことに,現役の京都人としては少し恥ずかしい.